日曜ドラマ『良いこと、悪いこと』がついに最終回を迎えました。放送直後からSNSでは「モヤモヤする」「残念すぎる」といった声が相次いでいます。特に、復讐劇としての結末や、警察官である宇都見の立ち回りに違和感を抱いた方も多いのではないでしょうか。
今回は、ドラマ『良いこと、悪いこと』の最終回を徹底ネタバレ考察。なぜ多くの視聴者が「ガッカリ」したのか、そして本来あるべきだった「ヒーロー」の姿について、未回収の伏線とともに深掘りします。
最終回では、これまで謎に包まれていた連続殺人事件の犯人が、主人公・瀬戸の最愛の夫であり、現職刑事の宇都見であることが判明しました。彼の凶行の裏にあったのは、小学生時代の凄惨ないじめと、その犠牲となった婚約者・紫苑の存在です。宇都見は「悪いことをした奴には罰を与える」という、かつてのヒーローへの憧れを歪んだ形で実行に移しました。しかし、その「正義」の名の下に行われたのは、法を無視した私刑であり、視聴者に重い違和感を残しました。
ドラマのラストシーン、歩道橋でいじめられている少年に、一人の大人が「大丈夫?」と手を差し伸べる描写で幕を閉じました。これは「傍観者にならず、小さな勇気で助けることこそが真のヒーローである」という、制作陣が提示した唯一の救いだったのでしょう。しかし、それまでの物語があまりに凄惨な復讐劇であったため、この着地点が唐突な「綺麗事」に見えてしまったことは否めません。血塗られた復讐の果てに、この淡い道徳観を置くバランスの悪さが、ファンの間で議論を呼んでいます。
多くの視聴者が期待していたのは、緻密に張り巡らされた伏線が一つに繋がる圧倒的なカタルシスでした。しかし、蓋を開けてみれば宇都見が自分の罪を正当化し、悲劇のヒロインならぬ「悲劇のヒーロー」を気取る姿が強調され、設定の矛盾も放置されたまま。結果として「日テレサスペンス特有の強引な着地」という印象を強めてしまい、熱心に考察を続けてきた層ほど、梯子を外されたような喪失感を抱く結果となりました。
視聴者の間で最も鋭い指摘として挙がっているのが、「宇都見は最後に銃を高木(自分自身)に向けるべきだった」という説です。幼少期の自分を「高木」と呼んでヒーローを夢見た彼は、いじめ加害者を「悪い子」として排除しましたが、その過程で5人もの命を奪い、誰よりも深い闇に落ちた「最大の悪」になってしまいました。もし彼が掲げた正義を貫き通すのであれば、物語の最終章で裁かれるべき標的は、他ならぬ自分自身であるべきでした。
彼が幼い頃に思い描いた「悪い子をやっつける」という夢。これを真の意味で成就させるには、復讐を完遂した後に自らを「悪い子」として始末する、自己犠牲的なラストこそが相応しかったのではないでしょうか。自決、あるいは警察との相打ちという形で幕を閉じていれば、物語にダークなカタルシスが生まれ、悲劇のリアリティは一層増したはずです。生き永らえ、どこかで救いを求めているような中途半端な描き方は、復讐者としての覚悟を安っぽく見せてしまいました。
いじめ加害者たちが救いようのないクズであったとしても、数十年という年月を経て、すでに別の人生を歩んでいる人々を次々と殺害することは、正義ではなく単なる妄執です。過去の痛みは同情に値しますが、だからといって殺人が許容されるわけではありません。視聴者の多くは、いじめ問題の深刻さを理解しつつも、「いじめられたから殺していい」という安易な等式にはNOを突きつけています。宇都見を過度に美化し、悲劇性を強調する演出が、かえって彼の自己中心的な狂気を浮き彫りにしてしまったのです。
サスペンスにおける「偶然」は時にスパイスとなりますが、本作ではそれがメインディッシュになってしまいました。復讐の協力者やターゲットが、あまりにも狭い人間関係の中で、都合よく再会しすぎているのです。特に、東雲が偶然ターゲットの職場の同僚であったり、瀬戸の結婚相手がピンポイントで復讐計画に最適な立場にいるなど、「神の視点」による調整が透けて見えすぎてしまい、物語の没入感を大きく損なう原因となりました。
日本の警察組織は、決して一人の刑事が好き勝手に動けるほど甘い場所ではありません。数万人規模の巨大組織において、個人の判断で証拠を隠滅したり、容疑者を独断で尋問したり、果ては殺害現場を自由に行き来したりすることは、組織構造上ほぼ不可能です。特に最終回、警察が彼を犯人と特定しているにもかかわらず、追悼コンサートでピアノを悠々と弾き終えるまで手出しをしない演出は、あまりに非現実的で、サスペンスとしての緊張感を決定的に崩壊させました。
科学捜査が発達した現代において、宇都見の手口はあまりに原始的です。物理的な接触を伴う殺害でありながら、下足痕も毛髪も残さず、街中の監視カメラにも捉えられないという描写は、視聴者に「警察が無能すぎるのか、犯人が魔法使いなのか」という疑問を抱かせました。刑事という立場を利用して隠蔽したという説明だけでは、あまりに多くの無理があり、ロジカルな考察を好む視聴者を失望させる結果となりました。
SNSや掲示板では「いじめ加害者が酷いのは分かるが、5人を殺すのはそれ以上の狂気」「復讐の域を超えたシリアルキラー」という冷ややかな意見が支配的です。制作者側が宇都見に同情的なトーンで物語を進めたことで、かえって「どんな理由があろうと殺人は悪である」という視聴者の倫理観を強く刺激し、作品との間に修復不可能な温度差を生んでしまいました。
実際にいじめを経験し、その苦しみを知る人々からは、より厳しい声が上がっています。「自分の苦しみを他人の命を奪う言い訳にするな」「復讐を完遂しても失われたものは戻らないことを描くべきだった」という指摘です。婚約者・紫苑の死さえも自らの凶行を正当化する道具にしている宇都見の姿に、真の救いやいじめ問題への深い洞察を感じ取ることは難しかったようです。
ゴールデンタイムの地上波放送という枠組みが、結末の幅を狭めてしまった可能性は高いでしょう。自殺を美化することも、殺人を肯定することも許されない放送コードの中で、最終的に「いじめを止めよう」という無難なメッセージに着地せざるを得なかったのかもしれません。しかし、その「忖度」が、作品が持つ本来のポテンシャルを殺し、中途半端な「ガッカリ感」を生んでしまったのは皮肉な結果です。
物語の中盤まで、意味深な表情や断片的な記憶、特定のアイテムなど、多くの伏線がバラまかれてきました。視聴者はそれらを組み合わせて犯人像を推理してきましたが、最終回でそれらの多くが「単なる演出上のミスリード」や「特に意味のない描写」として処理されてしまいました。考察を楽しんできた層にとって、この「投げっぱなし」感こそが最大の不満点となっています。
物語の核となるはずだった、瀬戸と宇都見の夫婦関係の描写も極めて不透明なままです。自分の愛した人が殺人鬼だったという、瀬戸が直面した究極の絶望に対して、彼女がどのような葛藤を経て、最終的にどう受け止めたのかという精神的なプロセスが決定的に不足していました。愛ゆえの狂気なのか、それとも愛さえも偽物だったのか。その答えが提示されないままの幕引きは、情緒的な満足度を著しく下げてしまいました。
もし、宇都見が自分の罪を自覚した上で「最後の悪い子」として自分を裁いていたら、あるいは瀬戸が彼を自らの手で止めるという、より壮絶な愛の形が描かれていたら、本作は時代に残る衝撃作となったかもしれません。視聴者がこれほどまでに「残念だ」と声を上げるのは、それだけこの物語のテーマが重く、魅力的なキャラクターたちが揃っていたからに他なりません。
ドラマ『良いこと、悪いこと』は、いじめという根深い社会問題に対し、エンターテインメントの枠組みで挑んだ意欲作でした。しかし、その結末は設定の整合性や、復讐というテーマが持つ毒性を消化しきれず、多くの課題を残すこととなりました。
「良いこと」を成そうとしながら、最悪の「悪いこと」に手を染めた宇都見。彼が本当に求めていたのは、血塗られた正義ではなく、過去の自分を許せる誰かの存在だったのかもしれません。皆さんは、この賛否両論を巻き起こした最終回に、どのような答えを見出しましたか。このドラマが、単なる「残念な一作」に終わるか、あるいは社会の傍観者に対する警鐘となるかは、私たちの解釈に委ねられています。